グリークラブ香川の歴史

香川・高松で活動中の男声合唱団グリークラブ香川、創立時の秘話です。

グリークラブ香川 創立秘話

男声合唱団グリークラブ香川 公式ウェブサイト

香川県における男声合唱団の歴史は、昭和54年4月、丸亀に三菱電機が進出して来たのに始まる。神戸の三菱電機で合唱をしていた数名の人が、丸亀に工場ができるのを機に転勤してきて始めたのが、そもそもの始まりである。

 

職場の男声合唱団「コールメル」(現在は丸亀男声合唱団コールメルとして一般合唱団になっている)で10名程度で細々と活動していた。私はたまたま三菱電機の仕事をしていた関係で昭和58年からそれに加わり、大学卒業以来12年ぶりに歌いだした。職場合唱団の宿命か、なかなか人数も増えず、練習は各パート1〜2名、発表の機会もあまりなく、次第に物足りなさを感じ出した。

 

たまたま高校の同級生だった岡内氏(横浜市大グリーの出身で、香川二期会合唱団に所属して歌っていた)から、男声合唱の好きな男が数人いることを聞き、井上氏(明治大学グリー出身)や阪内氏(岡山大学コール・ロータスの出身)(両氏とも香川二期会合唱団に属して歌っていた)と共に、コールメルの演奏を時々手伝いに来てもらっていたのを足場に、高松に男声合唱団を創ろうと思い立ったのが昭和62年の春のことである。そして香川二期会合唱団に入団した。(昭和50年代に岡内氏から香川二期会合唱団にお誘いはあったのだが、男声合唱以外は興味がないと断っていた。)実際に1つの団体を創るとなれば結構大変であった。(俗にいう産みの苦しみかな?)団員の確保、指揮者はだれに、練習会場は、その他もろもろ…団活動の中心で最も重要な指揮者は、当時四国二期会の会員でオペラ活動をしていた鬼無氏(関西学院グリークラブの2年後輩)に打診したところ、快諾を得て常任指揮者に就任して頂いた。団員集めには井上氏、岡内氏らと奔走した結果、香川二期会の12名と高松混声の4名(音楽協会の行事で船の中で三原氏と出会って意気投合したのがきっかけ)とを核に18名の仲間で昭和63年9月1日に産声を上げることになった。

 

指導の先生は、男声合唱界の大御所たる関西学院グリークラブ育ての親である、林雄一郎先生にお願いすることになった。私と鬼無氏が同クラブの出身だったために、先生も快くお引き受け下さった。初代団長は当時最年長(44歳)の太田氏にお願いすることになり私は事務局長を務め、団の三役は決定した。練習会場は団長のご尽力により桜町のカトリック司教館の地下を借りられることになった。練習日は、当時他の合唱団が火曜日、水曜日、金曜日が練習日であったため、自ずと木曜日に決定した。かくして一応の諸条件を満たして、合唱団1年生はヨチヨチと歩き始めたのである。

 

ひよこの合唱団の船出は必ずしも順風とは言えない危なっかしいものであった。団員の仕事を考慮して、練習開始時間は午後7時からにしたのだが、毎回定刻までに来るのは私と指揮者の他はほんの1〜2名で、なんとかクァルテットが組めるのが午後8時を30分も過ぎたころで、1つのパートが1人もいないのも珍しくはなかった。指揮者と二人で夢を語ることで不安を払拭していった。それでも皆の熱意で団員も4名増えて総勢22名の団員が集まり旗揚げ公演に向けて練習を重ねて行った。

 

定期演奏会用に団の服も作成した。皆の意見をいろいろ聞いた後、明るいエンジ色に決定した。赤色は情熱の色、燃え立つ我々の心の色。白色ベージュのブレザーが多い中、非常にインパクトのある色であった。しかも制作は三越のオーダーメイド、ダンディーさも考慮してサイドベンツのワッペン付、ネクタイはダークグリーンの棒タイとオーダーづくしであった。難点は制作費用が高くついたこと。ブレザーは当時2万5千円、ネクタイは2千円、ワッペンは3千円、合計3万円也。やがて、団員たちがこの服を着てステージで歌うことに、誇りを感ずるようになって貰いたいものである。

 

ひよこの合唱団が、結成してわずか半年後に第1回の定期演奏会を開催するなどあまり例のないことだが、何とか情熱だけで無難に乗り切ったように思う。(実際には、しなければならないことがたくさんあって結構大変だったのだが、今となっては何の苦労も覚えていない)

 

会場はチケットの販売能力を考慮して444席のミューズホールに決定した。チケットは団員の熱意を信頼してパートノルマにしてそれぞれの自主性に任せたが、必ずしも正比例するものではなかった。(第2回からは個人別完全ノルマに変更)

 

創立5周年記念誌から転載 原文のまま(現会長 澤井 隆 筆) 会長 澤井隆